7歳やそこらの小学校くらいの歳の頃、
飯盒炊爨(はんごうすいさん)をした記憶が
かなり鮮明に残っている。

スイミングスクールの遠足で山に登り、
みんなで米をとぐ所から始めて
米を飯盒に入れて火にかけ、
グツグツいうまで絶対フタを開けたらダメって
言われていたのにこっそり開けたりして
わいわい言いながら出来上がったご飯を、
別の組が作っていたカレーをかけて食べた。

飯盒炊爨特有のおこげがあったりして、
それをみんなで取り合いになったり
スゲー楽しかった記憶がある。

めっちゃ美味しかった。

改めて思い出すと、
その時のご飯はベチャベチャだったし
芯が残っている米粒もあったし
お世辞にも美味しいは言えない
ご飯だったけれども、
それでもめちゃんこ美味しいと感じた。

また、ある別の記憶。

昨年、超絶高級イタリア料理の
フルコースを食べる機会があり、
その中で出てきたリゾットが
爆裂ド級に美味しかった。

たったひと口サイズだったが
そこには完全に未知の世界が広がっていて、
視覚から嗅覚から味覚から何から何まで
圧倒的に刺激された。

これは米なのかとも感じたし
これは米なんだとも感じた。

そしてその後に知る
その米のストーリーや
思い入れが、心地良い余韻と共に
新しい知覚のスパイスとして
日を跨ごうとも、
僕の五感にこびり付いている。

前者の飯盒炊爨も
後者のリゾットも
美味しいと感じたコメ。

どちらも素材のジャンルは同じで
それを食するまでのアプローチが違うだけ。

どちらも美味しいと感じることは
紛れも無い事実。

コレをきちんと認めることが
大事だと、特に近頃よく思う。

コーヒーであってもそう、
人であってもそうだ。

他方を否定することでのみ
アイデンティティを確立しようとすることは
世界を自ら狭める行為で
きっと長続きしない。

それってそもそも楽しくない。

コーヒーであっても
人であっても
楽しいことをしていたい。

【自分でつくりあげる
過程を楽しむコーヒー】

も提供したいし、

【圧倒的なプロフェッショナルが
つくりあげるコーヒー】

も提供したい。

だから自宅で気軽に
淹れられるコーヒーも勧めるし
濃度0.01%を追求する
コーヒーも勧めている。